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2012年7月24日 (火)

「ヒミズ」-私たちには腐るほどの道がある-

壊れた家の子。親から「お前なんて生きていなくてよい。死んでくれ。」と言われる子。住田(染谷将太)と茶沢景子(二階堂ふみ)はクラスメート。二人ともそれぞれ悲惨(と簡単には言えない)な家庭で生きる。

人は大概の場合、生まれたときは周りのみんなから愛情を降り注がれる。周囲(主に「親」)の愛がずっと継続する人は幸せだ。そんな人は親から「死ね。」と言われた後の自分の顔を鏡で見ることなどないだろう。住田は、父親から「死ね、そうすれば、保険金がおりる。」と何度も言われる。鏡を見ながら涙を流す住田。折り合いがつかない、というのはこのことだ。

親からきちんと愛をもらえないと、「もうどうせ何をやってもうまくいかない。」という気分になる。たとえば今貧乏でも、頑張って働けば買いたいものは買える。今太っていても、頑張ってダイエットしたら痩せることはできる。今モテなくても、身なりをこぎれいにして、社交的な性格になれば、モテるようになるだろう。今勉強ができなくても、一生懸命工夫して勉強したら、成績も上がるだろう。しかし、「親にきちんと愛されなかった。今も愛されていない。」という事実は、子供の方が努力しても、どうにもならない。

私にはこの感覚がよくわかる。茶沢さんの母親のように、娘に死んでもらうための絞首台を夫とともに作るような、そこまでいかれた親ではないが、私の母もやはり、この世にたくさんいる「子供なんて生むんじゃなかった。」と思ってしまったり、また、それを直接子供本人に言ってしまうタイプの人だった。友だちが「お母さんになんでも相談事をするよ。」とか「お母さんと旅行に行った。」とか言うのを聞くのは子供のころからしんどかったし、今でも正直しんどい。そのあたりの「母子仲良し」経験は得ることができないからだ。死ぬ思いをして稼いで自力でダイヤの指輪を自分のために買うことはできるかもしれない。(いや、ダイヤは高いか・・・)しかし、自分の母親と仲良くすごし、母親に愛してもらう、ということはお金では買えないので、私には一生無理だ。そんな「どん詰まり感」の、それも強烈なやつ、に日々窒息しそうになるのに、住田や茶沢さんは泣きごとを言わない。

そう。劇中、茶沢さんは「実はね、私の家も崩壊しててね。」などと住田に言ったりしないのだ。自分の(かなり強烈な)状況については何も語らず、ただひたすら、テンション高めで「住田君には私がついているから何も心配いらない!」と、寄り添う。この二人は「僕たち『不幸な者同士』だから、傷を舐め合いながら生きましょう。」という方法を持たない。住田も、自分の口から泣き言は言わない。母親に捨てられ、父親には死ねと言われても、泣き言は言わず、「ちゃんとした大人になりたい。」と望んでいる。

そこがこの二人を、この映画を、終盤までずっと輝かせているのだと思う。

「お前には腐るほどの道があるのに・・・」というでんでんのセリフが一番よかった。閉塞的な気分にさせる数々のものによって、ときに私たちは「道がない」と感じる日もある。だから、いつか誰かに刺されて死ぬであろう(でんでん演じる)金子の言葉が光る。マクベスの「きれいはきたない、きたないはきれい。」みたい。きれいな顔して「頑張れ!元気出せ!震災に負けるな!」って言っている劇中の中学教師よりも、えげつないサラ金経営者の金子の言葉の方がずっときれいだ。

園監督の他の作品で強烈な役を演じていた方々に「再会」できて、うれしい悲鳴なのだが、好きな人が出てくるたびに気持ちが一瞬止まってしまう。「あ、でんでんみっけ!」とか「吹越さんと神楽坂嬢は今回はどうも仲良しのようだな。」と気持ちが映画から離れてしまうのだ。黒沢あすかさんにしても、そう。ちょっと「いつもの仲間たち」が多い。ティム・バートン監督作品に嫁のヘレナと親友ジョニー・デップがいつもいるようなものなのかな。やはり働きやすい人と一緒に映画作る方がやりやすいからなのかもしれない。

津波によるがれきの風景。ただただ流れるモーツァルトの「レクイエム」。繰り返されるヴィヨンの詩。若い二人はこれからも、傷を舐め合ったりせず、未来へ向かって走り続けるのだろう。

圭子

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