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2014年1月19日 (日)

「東ベルリンから来た女」-職場が癒しの場であることの異常性、そして、幸福-

バルバラは東ベルリンから田舎の病院に左遷されてきた医者だ。舞台は1980年。壁崩壊まであと9年だ。

口角は下がり、いつもむっとしている女バルバラ。不愛想だ。東ベルリンの大病院からなぜ田舎町に流れてきたのかは理由が描かれない。ただ、彼女を常に監視する目があることは映画の冒頭からわかる。バスに乗っていても、誰かの視線を感じる。アパートの大家は常に彼女の行動を見張っている。挙句の果てには、ちょっと外出して帰りが遅くなると、アパートの部屋に勝手に誰かが入っている。警察なのか?部屋の中を勝手に荒らしている。バルバラが何かを隠しているのかを探しているのか?バルバラは何者なのか?

彼女の部屋を訪れるのは警察風の男だけではない、いつも時間差でアパートに来る手術用のような手袋をした女。その女が部屋に来ると、バルバラは不機嫌な顔をさらに不機嫌にさせバスルームに行く。時間差で訪れた「手袋女」がバルバラに何をしているかは、簡単に想像ができる。

恐ろしい監視社会。次第に、状況がつかめてくる。バルバラの部屋にいつも突然訪れるのはシュタージの面々だ。バルバラには西ベルリンに住む恋人がいる。時々彼と密会する彼女は、西に亡命して自由を得ることを静かに準備している。そんな彼女を東の社会が放っておくわけがない。常に緊張感のある生活を強いられるバルバラ。

そんな彼女が唯一ほっとできる場所が職場である病院だ。そこにかつぎこまれる収容所から逃げ出してきたステラという女の子に心を開かれ、「誰かに必要とされる」という喜びを得るバルバラ。他にも、自殺未遂で脳に障害が出ている患者に関しても、責任を持って治療しようとする彼女だ。自宅での安堵感ゼロの生活のときに比べ、病院の控室で白衣のコートを羽織る彼女の表情はとても柔らかだ。

よく考えると、これは非常に、異常なことだ。どんな人も、外で働いているときはストレスも緊張感も抱え、家にやっとたどり着いたときはリラックスするであろう。それが逆になっている状態、つまり、自宅では常にカーテンの隙間から外に停まっている(自分を監視する)シュタージの車の有無を確認し、気配を潜ませて暮らしていて、緊急患者がどんどん運ばれてくるようなある意味ストレス満載の職場がやっと息ができる環境だということは、彼女の人生が恐ろしいほど「異常」であることを意味する。そして、そんな想像を絶する異常な、悲劇的な環境でも、一切愚痴らないし、涙も見せないバルバラに、「ヒーロー」と呼びたくなるようなオーラを感じる。

人の役に立つ、人に必要とされる、ということに生きる道を見出し、最終的にバルバラは東に残ることにする。自らの意志で、だ。ある意味ハッピーエンドとも思えるラストにかかる曲は「At Last I am Free」。西で待つ恋人にはもう会えないだろう。でも、私は今、ついに、自由の身になった。そんなバルバラの心理にぴったりと合う曲だ。

圭子

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